ネコが好きだ。
僕の名前はどう呼んでもらっても構わない。
数ある丸メガネを選定するのは僕の朝の日課だ。僕と会う人は(妻でさえ),
「どの丸メガネも、同じに見える」と言うが、僕の拘りは細部に宿るとも言っておこう。
一つ丸型とはいえ、細形、べっ甲、はたまたガラスフレームまであるのだから、キリがない。
それでも、丸型の選定に拘る。
その様(さま)は、そうだな、コーヒーを淹れるように。
一つコーヒーを挽くにもコツが要る。
さぁ、丸メガネをはめて窓越しに天を仰いで、準備万端だ!…
とはいえ今日は雨だなぁ、昨日の様な挽き方じゃあ、きっと、今日の僕が許せない。階段を降りて今日の準備を、と、湿気を含んだ空気に柔らかく包まれた喫茶店の中、一つ、愛猫が「にぃー」と少々荒めに僕を迎えてくれた。
と、同時に、先に支度を終えた妻が、コポコポと音を立てるケトルをじーっと見ている姿が眼に入った。
”おはよう”
のつもりで、僕は、よっ、と左手を挙げると、その勢いで手を下に降ろし、膝を打ってみせた。
「はい、今日も始まりました、あんたは毎日が舞台かや!って、今日はどの演目をやるつもり?」
と返した。
そう、先ほどの動作は、まるで落語の合の手、それも話の緩急をつけ、ここぞというとき(耳をそばだてて欲しい瞬間)に、行なう動作だ。
更に言うなれば、膝を打つ前は余興であって、僕の中ではまだ”本番”ではない。
おっと、また拘り発言をしてしまった。
人に会う時には僕は”温厚な丸メガネさん”、それだけで良かろうが。しまったしまった。
もとい、僕の中では、あの閉じた扇をパンッと振り下ろす時が正念場で、まるでスイッチが入った音の様に聞こえる。
僕の中のやる気スイッチを入れてくれる小道具が二つ(丸メガネと扇)もあるなんて、なんという幸せ
だろうか。
どこぞの時代から来た猫型ロボットは、四次元ポケットを持っていて、どの時代をも行き来できるドアを出してきたり、なんだか知らぬサーチライトを出してきて、あっという間に短くも濃いドラマを僕たちに見せて勝手に互いに幸せな気分になっていた。
そうか、そうすると、僕には四次元ポケットはないが、着物の袂(たもと)という限られたスペースから、お気に入りの丸メガネと扇を出すことは出来る。
そして、それはいつも、僕を一人にはしてくれず、周りの見知らぬ人を勝手に巻き込み、僕の落語(ドラマ)に付き合ってくれて、笑ってくれたりしたものだ。
そうか、丸メガネと扇は僕を一人にしてくれないのか、困ったやつだな、愛くるしいなぁ。
…ふと、我に返って、手元を見ると、手に持っていたのは扇ではなく、愛猫だった。
無我夢中で、愛猫をワシャワシャしていた。まるで犬を扱うような手つきをしたせいか、愛猫は”この人、今日は何だかおかしいわよ”という目線を僕に送っていた。
愛猫は終始、しれっとしていた。
けれど、嫌がってもいないようだった。
時計の針も随分と進んで、危うく、朝のコーヒー一杯!なんて時間も奪われかけた。
僕は、コーヒーだけでなく落語も出前に出すのだ、今日は都心だ、やけに落ち着かないな、しかし、話の”落ち(オチ)”はつかねば、落語じゃああるまい。
しまった、しまった、細かい拘りは(略)
はい、では、今日も誰が待つかわからぬ小部屋にいってきまーす。っと。
下駄をはいた僕に妻がポツリと言う。
(僕は今日はエプロン姿はお休み。出前落語には、着物だ!下駄だ!えーと、拘りは(略))
「やっぱり雨のせいとか、そういうことじゃなくて、あんた、今日動き可笑しいけど、落語してたらそのうち、いつもの調子が出てくるんじゃない?あんたが行けば、どんな小部屋だって、誰かは居てくれて笑ってくれるんだから、あんたもいつもの調子で笑っててくれないとね。お客さんに申し訳ないでしょ?可笑しいなら、とことん可笑しいあんたでいいよ。もう行きな、時間だよ。」
妻がポツリ、という割に長めで、朝から”正しい話”をしながら、近所のおじさんから譲り受けた、アンティークの黒い丸時計を二回指差して言った。
「古臭いことやってると思われる時代は終わったよ、あたしよりか、もっと面白がってくれる人たちのとこ行きな、はよ。」
やはり 妻には敵わない。
説教に見せかけた応援を受けて、僕はドアノブに手をかけた。
いつかどこかで聞いた。
夢の扉の話。
夢へ続く扉は、いつか突然にバーンと大きな音を立てて開かれるというけれど、
僕の夢へ続く扉が開かれる音は、もっとそれよりか、きっとずっと小さい。
扇をパシンと手元で打つあの音。
それだ、それが僕にはちょうどいい。
僕のやる気スイッチであり、僕の夢へ続く扉の開く音だ。
パシン、と、音を遠慮なく立てられる小部屋に、
さぁいこうか。
仲間たち はじめまして。
もう少しだ 待っててくれ。
「ごめん、ボーッとしてたらいけんね。いってきまーす。」
今日も僕は夢の扉が少しばかり開いた音を聴きにいく。
自らの手で目で、五感で、夢へ続く扉を少しずつ開けるのだ。
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