2016年7月31日日曜日

”0830”~ゼロハチサンゼロ~

「カズさん、聞いて聞いて!あのね、やっと、カズさんのいない時に”ぱぱぁ”って言ったの!凄くない?」



疎ら(まばら)に並べられたスリッパをどうぞどうぞと言わんばかりに、両手を広げ、履かせようとし、早くリビングまで来るよう、俺を誘導した。



仕事から帰るなり、上司からの叱責を珍しく受けて撃沈する俺をよそに、意気揚々と話しかけてるが、どうやら、その、”ぱぱぁ、と、やっと言った記念日”というのか、それが、俺が居ない時に限ってその瞬間を迎えていたらしい。



人間の踏み出す一歩というのか、奇跡の瞬間というのか、
子供の成長の瞬間を見逃しているばかりでなく、
”ぱぱぁ”と言って指を指したその方向を見ると、それは俺の写真ではなく、アヤが記念にと録画しておいた、唯一のバラエティ番組で、笑っていいとも!最終回の鶴瓶師匠の姿であったことを聞かされ、思わず苦笑いをした。



ちなみにアヤの事は奥さんと呼んだことはないし、俺の名前だって和宏というが、旦那さんやパパとも言わず、子供が産まれてもなお、俺を”カズさん”と呼んでいる。



アヤ曰く

「新鮮さだって、コミュニケーションとか呼び名で何とでもなるし、鮮度も保たれる。なんと画期的!チルド式夫婦生活!」

なんだそうだ。



アヤが可笑しいのか、夫婦共々おかしいのか、さて、どちらだろう。




前までバリキャリやってた人間が、”パパ”という言葉を発すること自体が既に、子供が成長するかの如くの、人間の成長なのかなぁ、とも和宏はぼんやり、天井を見つめた。



するとアヤは 突然、



「バリキャリやってた人間はですね、今度はスーパーウーマンになるんです!ご覧ください、このサラダ!チアシード入りでございます。副菜の小鉢はいくつかご用意してございますので、お好みで!そして、カズさん向かって右手にはこちら、地域限定のビール!ちなみに、遅いお中元ということでお隣さん宅提供でございましたー!」



と歯がこぼれ落ちんばかりの笑顔で”ジャーン”と御披露目した。



”バリキャリ” というワードを思い浮かべていたことを、当てられたことに、やっぱりアヤは妻なんだよなぁ。と感心するも束の間、残業と叱責のダブルスで時間は23時を指していた。



もちろん、とっくに子供は寝ている。


アヤはシングルマザーの元に育てられたため男性との接点も少なく、子供は男の子を切望していたが、神様ってのがいるのか知らぬが、産み落ちたのは幸いにも、健康体そのものの男の子だった。



食べる順番には気を付けないとね、なんて思いながら、サラダをモグモグ食べながら、ふとアヤを見ると、俺の右手の缶ビールで視線が止まったまま、ソファーから動かないでいた。



何も言わずに様子を見ると


左の頬を涙がつたっているのが見えた。


俺の疲れではない。


それは確かなものだった。



「アヤ、何かあった?」



ドレッシングを足しながら視線を逸らしてアヤの様子を伺ってみると、グスグスという音が聞こえて来た。アヤは何も言わない。



「アヤ?どした?」


「ビールのお味はいかがでしょうか、お父さん」


「び、び、びーるのおあじは、、、お父さん」



というので、和宏は箸を置いて、慌てたように一口すすって、


「うん、いい泡立ち、いい感じだよ。でも珍しいなぁ、カズさんじゃなくて、俺、お父さん呼ばわりするなんてな。まぁ、いいよね、たまにはそんな呼び方の日があってもね?」


とホッと一息つくように笑った。


すると、アヤが  うわぁーん と堰を切ったように泣き始めた。



「カズさんさぁ、あたし、子供いるじゃん、ねぇ?」


「はい、待望の男の子でしたねぇ、うん。それが?」



「カズさん、あたしね、お父さん、って呼んだこと無いんだよ。だからずっと言いたかったんだ、もし本当にあたしにお父さんがまだ居て、お母さんの側に居てくれて、いや、お母さんと暮らしてくれてて、もう、とにかくお父さんって存在に逢えるんだったら、真っ先に”お父さん”って言って、ビールのプレゼントなんかしてみたかったんだよ。」
「それがさ、お父さんって呼んだことない人間が、男の子育ててるって、どうなのかな、ハルトもあたしも可哀想に思えるのは何でかなぁ、カズさん、何でだろうねぇ…」



アヤの顔はぐしゃぐしゃになっていた。



笑顔になったり、号泣してみたり。
猪突猛進型の性格にプラスして、ジェットコースター並みの感情の振れ幅を持っていることは、結婚前から承知の上だったが、ここまでだとは正直思っていなかった。


男もホントはツライんだけどな・・・

という本音はそっと置いておいて、和宏はアヤの肩をそっと抱きしめてあげた。
すると、子供がえりしたように、収まったと思った涙がまた溢れかえして、和宏のカッターシャツを濡らしていった。少しづつ、染みるように、肩の上で水の輪は広がっていった。


気がつくと朝だった。
残り物にサランラップをするのを忘れて、アヤはソファーで、俺は床で寝てしまったらしい。
ハルトが一度もぐずらず起こされることがなかったことが、唯一幸いなことであった。



アヤの号泣を遠くから察知していたのかはわからなかったが、珍しく朝一にアヤの母から電話が入った。



アヤはケロッとした表情で

「あたしも元気だし、ハルトも元気だよー。カズさん優しいし、さすがあたしのカズさんだね。あっ、お母さん、久しぶりにお寿司でも一緒に食べにいってみる?あたしも、もう大人だよ!色々あったし、いい経験も、たーんとさせてもらったり、ロクでもない男に引っかかったり、って、もう、いいじゃん、お昼からビール飲もうよー!」


なんて、自分の母と次に会う機会を作っていた。


アヤは、アヤだ。

俺がお父さんと呼ばれることがあれば、それはハルトからだけだし。
きっと、アヤは誰に対してもお父さん、なんてもう言わないのだろう。


でも、それでいい。


それに、お父さん呼ばわりしたことない女が、立派に子供を育てられませんでした、なんてあまり聞かないしなぁ。
それは、性別を超えて人間、なのであって、子供は自分の分身だからだろう。

アヤはアヤだから、好きだから結婚もしたし、ついでに子供もできた。

それが、よかったんだ。それがいい。

さっきまで飲んでいた缶ビールの裏の製造番号下4桁のことはだまっておこうかな。

俺だけの話に。




ゼロハチサンゼロ

ゼロハチサンゼロ


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